VOL.12
伊藤 瑞子 先生

・あおばクリニック 前院長

<略歴>
1970年(昭和45年) 3月 長崎大学医学部卒業
1970年~ 長崎大学病理学第2教室入局 第1・2子出産
1976年(昭和51年) 5月 病理学教室辞職
6月 国立長崎中央病院臨床研修医(現 国立病院機構長崎医療センター)
1978年(昭和53年) 7月 第3子出産(産前産後休暇は取得済、育児休業制度は無し)
9月 同、小児科医員
1984年(昭和59年) 4月 長崎県離島医療圏組合厳原病院小児科医長(現 長崎県対馬病院)
1994年(平成6年) 9月 福岡県の病院に勤務
1996年(平成8年) 9月 あおばクリニック開業
2014年(平成26年) 2月 院長交代、第1子に継承
2017年(平成29年) 4月 公立大学法人福岡女子大学大学院 人文社会科学研究科入学
2019年(平成31年) 3月 同、卒業 修士課程修了

<修士論文>

「育児の共有」の必要性とその実現へ向けての研究 ―男女共同参画社会実現へ向けて―(要旨抜粋PDF)

医師を志した時期や理由をお聞かせください。
ひとりっ子だったので、女性も仕事を持たないといけないというのが家族の願いでした。「学校の先生か医者になってね」「終戦後で、大変な時代を生きていくには仕事が必要だ」と小さい時から言われて育ちました。中学3年生頃から医者になろうと思っていました。

どのような医師を目指しましたか?ロールモデルとなった方はいらっしゃいますか?
親は医者ではなく、周りにも医者なった女性はいない田舎でしたので、特にいませんでしたね。仕事として当たり前に続けていくとは思っていました。

これまで、一番つらかったことや印象的なエピソードはありますか?
卒業の時に病理学教室を選んだのは、当時の故土山秀夫教授が、絵(組織)で疾患をクリアに説明してくださり興味を持って入りました。教室の河合紀生子先生(昭和40年本学卒業)は、格好良く颯爽と仕事も頑張られていて、優しくて、大変お世話になりました。河合先生も子育てをされていたので、相談すると「私も仕事を辞めようと思う時はあるのよ、でも1週間頑張ってみようかな、あと1か月頑張ってみようかな、と思っているうちに事情が好転して続けられるのよ」と話された事が糧となり今でも覚えています。病理の仕事は、研究・解剖・生検をみる仕事ですが、私は解剖と生検をみるのが精一杯で、研究まではなかなかできなくて、河合先生と杉原甫先生に助けていただきました。自分にはクリエイティブな仕事をするだけの能力がないことが、一番つらかったです。子どもは小さかったし、夫は、単身赴任などもあり帰って来ない…時間もありませんでした。大学研究者は、指導、教育もしないといけないので、これは限界だと。病理で学位を取得した後は、臨床に行こうと決意しました。2回も潰瘍ができるほどつらい時期でしたが、医師を辞めずに続けられたのは、河合先生のおかげです。

対馬いづはら病院で院内病児保育施設を開設されたのは、どういう経緯でしたか?
対馬に行って4年後に新病院になる時(1988年~対馬いづはら病院(現 長崎県対馬病院)へ改称し新病棟へ移転)、ベッド数が200床、それまでの2倍に増えることになりスタッフを集めないといけないのですが、離島なので求人は大変です。それまでも病室を利用した院内保育がありましたが、新病院を機にきちんとした保育室を作ることになりました。私自身が子どもの病気の時はとても困った経験があったので、それなら病児保育室も作らないと看護師さんが困るだろうということが背景でした。大阪などには、先進的な病児保育室がいくつかあることを外来小児科学会などで知っていましたが、長崎県内で他にあったのかは、わかりません。その頃、事業所内保育室には補助金が出ていて、最初は年間1,000万円位利用できましたが、利用する施設が増えて、だんだん減らされ経営は大変だったようです。お泊りのできる24時間対応の保育室で、院内の勉強会の時にも預けることができました。病院が大きくなって、新しいことをするにはスキルアップが必要だし、基準看護の面からも看護師が不足すると病院の収入減になるという厳しい状況もありました。これからは地元の人だけでは足りなくなる、本土から来てもらって、長く働いてもらうためには、病院の「ウリ」を作らないと人は集まらないと主張しました。当時私は診療部長で、管理職だったおかげで、発言や意見が通り実現することができました。女性だけのためにそこまでする必要があるのかとも言われましたが、差し迫った人手不足の問題があり、ちゃんと意見を聞いていただけました。保育室と病児保育室は全職員が預けられるようにしたり、官舎の割り当てを男性優先ではなく、母子家庭など個々の扶養家族の事情に配慮するよう改善することもできました。 30年前の離島の人手不足が日本全体に広がっているわけですから、同じ様に働きやすい職場を実現する必要性が増していますよね。

共働き子育てに関して、大変なことはどのようなことでしたか?
今のような学童保育はなく、ずっとシルバー人材センターの方に頼んで学校から帰った時に家にいてもらいました。しかし、食事まで作ってくれる方はなかなかいませんでしたね。子どもが病気の時と、夏休み期間中は本当に困っていました。私たちの両親に預けたり、お手伝いさんに朝から来てもらったりしました。大村勤務の頃は、研修医の若い先生がプールに連れて行ってくれたり、看護師さんは家で子どもとケーキを作ってくれたり、医師官舎の色々なお宅で一緒に遊ばせていただいたりと、休みの日に面倒をみてくれて本当に周囲の方に助けてもらいました。1日でも有り難かったですね、子どもたちが喜ぶことでしたから。子どもが小さい時に、田舎で育てるのはいいですよ~。
いろんなサービスが増えた中、他人が家に入ることが嫌だと利用できない方がいるのは残念ですね。私の娘は、子どもの頃からシルバー人材センターの方に来ていただいていたので抵抗がなく、お掃除などの外注サービスを利用しています。娘が友達に勧めると、「こんなに時間の余裕ができるの!?」と感じられていたそうです。
私は、古いようですが、女性の大学進学が一般的ではない時代で若くして働いている人も多い中、税金で医者にしてもらったと思っています。選ばれた責任を果たすために、とにかく医師を続けることは責務だと感じていました。家族も、仕事の社会的責任も大事だということを、寂しいこともあったでしょうが、その時その時で子どもたちも理解してくれていたんだと思います。
子育てについては、保育園で集団の中に早く入ることも良いし、子育て支援のサービスをもっと利用していいと思いますよ。シルバー人材センターから来られた方も、保育所の先生も応援してくれていたと思っています。

共働き子育てを経験してよかったと思われることはどのようなことでしょうか?
夫とは同じ職種の共働きで、実は病院勤務も含め、45年間も同じ職場で一緒に仕事をしてきました。お互いに刺激しあったり勉強になったりしました。職場と家が近く夫婦の職場が同じということは、夫の子育て協力が得やすいような環境づくりとしては良かったと思います。でもそれは田舎でしか実現できませんでしたが。子どもがいると、別の人生を間近で目にすることができて楽しいです。夫は子育てに協力的ではありませんでしたが、仕事を続けることには寛容でよかったです。この2年間は家族のそれぞれが、楽しみながらいろんな協力をしてくれたおかげで大学院にも行けましたし、いろんな方たちと知り合いになれてよかったです。

大学院に進学した動機は?
子どもがクリニックを継承してくれてからは、私は週4日勤務になったので、人形教室とパソコン教室に通いました。エクセルを活用できるようになりたかったからです。2年間でグラフも表もマスターできたので、大学院へ行く自信にもつながったと思います。 ある時、自宅周辺で、福岡女子大学が行った男女共同参画と地域活性化のまちづくりアンケート調査に協力して、説明会で社会人大学院生と会話をする中で、再び学ぶことに興味を持ちました。男女共同参画やジェンダー学、経済学、経営学などについてまとめて勉強したかったし、働く女性のために、「女性がいつもの不平を言っている」で終わらせずに、論文にして社会に向けて発信したいという思いがありました。その頃から、自分の経験から、「育児の共有」というキーワードが頭の中にはありましたから。大学のサイトを調べると大学院生募集の締切1か月前でしたので、急いで直接大学へ願書を取りに行き、71歳でしたが、年齢制限もないということで受験しました。
もともと、家事育児を共有しなければ、社会で働く時は当然格差につながると思っていました。ある意味、仕事に関しては男性と同じに働かないといけないと思っていましたが、男性の働き方そのものが違うんじゃないかと思うようになりました。「シェア」すればいいのだということに気がつきました。それが男女共同参画ではないかと。男の社会に女性が参加するのではないのです。例えば、必要な時は、両親共に勤務が週4日という選択肢があったなら、あとの3日を自分のため、家族のため、子どものためというような、働き方・人生の選択ができるとよかったかなと考えるようになりました。ワークライフバランスと、男女共同参画と、家事育児の共有がこれからの社会に根付かないといけません。女性だけのプロジェクトではなく、男女ともに働き方の選択ができることが理想です。休職中の女性医師の働く環境が整えば、時間外労働時間の上限2000時間などというバカげた取り決め案は無くなりますよね。例えば、大学で研究がしたい、今は家庭生活に重点を置きたいという理由でも、勤務時間の増減が選べるという考え方です。元国立長崎中央病院で研修医の時からご指導いただいた故増本義先生は、アメリカで小児科と新生児の2つのボードを取得し帰って来られたばかりでした。研修医時代は、日曜祭日もない24時間体制のご指導でしたが、スタッフになってからは、朝夕の念入りなラウンドで、医者が変わっても医療の質を保つことを教わりました。子育ての時期に、完全なオフの時間もできて助かりました。長時間労働の改善には情報の共有しかないと今でも思います。
家事はずいぶん楽になっていますが、育児はまだ母親自身の責任感や固定観念もあり共有できていません。人間はDNAを運ぶ船の例えもあるように、実は、女性に組み込まれたDNAが、育児に根源的な幸福感をもたらして喜びを与え、仕事と子育ての両立がきつくても頑張ろう!と奮い立たせるのだとも言えます。父親である男性のDNAに、その根源的で圧倒的な子育ての幸せと喜びを一緒に育児をして感じるようになってもらうことが大切ですね。育児の共有は親としての責任だし、権利であると声を大にして言いたいです。 政府は、男性も1日当たり2時間30分の家事をするように※1と提唱していますが、医療界も、政府の方針※2に従って、合理化と情報共有で男女共に働きやすい職場環境をつくり、家事育児の無償労働を女性だけが担うことがないようにしないと、女性だけダブルワークをしている状態ですよね。

※1 内閣府男女共同参画局Webサイト 成果目標・指標参照
※2 内閣府男女共同参画局Webサイト「仕事と生活の調和」ワークライフバランス憲章

大学院を経験して、考え方が変わったことはありますか?
今までやってきたことについては、年を取ったなぁと能力の衰えを感じることが多いのですが、新しいことを勉強すると、脳の中にまだ使っていない部分があると実感します。新しい神経細胞ができてくるような喜びや楽しみを感じるようになりました。これからもまだ、聴講生として憲法学なども勉強したいと思います。年を取ると、講義を理解したというより、「腑に落ちた」感があり面白かったですね。

これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございますか?
男女共同参画社会ができるように願っています。小児科医として、今はあまりにも母親頼みの小児科学と感じるので、「小児科医から父親に「育児の共有」を勧めよう!」と先生方に向けて発信したいと思っています。「共有」の意識を子育ての出発点にしてほしいです。

リラックスするための方法や趣味はお持ちですか?
68歳頃から、ちりめん細工のお人形作りを月2回、習っています。大学院の2年間は休んでいましたが、また今年から始めます。布を触る時間や読書が好きですね。

女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。
このような企画に取り上げていただくなんて、仕事を続けてきただけの平凡な小児科医で申し訳ないのですが、丁度、修士論文を提出し、大学院を卒業したタイミングでお話があり、有り難くお受けいたしました。論文要旨をPDFで載せていただき本当に感謝です。 これまで臨床の場面でたくさんの女性医師と出会いましたが、独身でも既婚者でも、ワークライフバランスを常に考えたり、考えさせられている女性は、トータルに患者さんを診るという総合力で優れていると思っています。 もし、仕事を辞めたいと思った時は、もう1週間もう1か月頑張って解決方法を考えてみようと思ってください。思い切って他人の力を借りてもマネージメントさえきちんとすればいいのです。どんな場面になっても継続していれば、道は開けると思いますよ。そしてリーダーを目指してください。子どものために仕事を辞めようと思った時は「育児の共有」ですね。

<インタビューを終えて>

「長崎県対馬病院には歌手MISIAさんのお母さんが作った院内病児保育室があります!」という話を聞き、インタビューをお願いしました。センターが推進している環境整備を、30年前にすでに行われていました。お話を聞くと全く同じ理念で整備を進めておられ、共感することばかりでした。時を経て、長崎大学病院にも院内病児保育室が2019年度にオープンする予定です。安心して子どもを産み・育て、預け先を確保して当たり前に仕事の責任を果たすことのできる環境が整備されようとしています。 伊藤先生の大村勤務の頃は、病棟と院内の24時間対応の保育室と官舎が徒歩圏内にあるという便利な環境だったため、3人目の子ども(MISIAさん誕生)を考えられたそうです。24時間保育室が利用できたため、産後8週で復職、すぐに当直の担当も可能で、授乳等の呼び出しも行動範囲が狭く調整しやすかったそうです。共働きでも子育てしやすい環境があれば、子どもの数も増えて、その中から素晴らしい才能をもつ逸材が出てくることもあるでしょう♪ お話の中で、伊藤先生は「シルバー人材センター」を長く利用されたそうですが、「長崎医師保育サポートシステム」の利用で、家事育児の負担を軽減してモチベーションを維持しませんか?限られた時間を大切に過ごす事ができると思います。どうぞ、医師の就労維持支援のためにつくられた本システムを積極的にご利用ください。

2019年(平成31年)3月インタビュー

歌手MISIAさんの絵本をご寄贈いただきました

婦人公論2022年4月号に伊藤瑞子先生が掲載されました