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輝く卒業生インタビュー 福田 友子 先生

2016.08.01

VOL.6
福田 友子 先生
・医療法人 ふくだこどもクリニック院長

<略歴>
1973年(昭和48年)3月 長崎大学医学部卒業
1973年(昭和48年)6月〜 長崎大学小児科入局~研修医
1975年(昭和50年)6月 国立療養所嬉野病院勤務・約1年間
※このとき出産し産後6週で復職(産前産後休暇は取得、育児休業制度はまだ無い、復職直後は姑さんが育児を手伝い、その後も自身のご両親がバックアップ)
1976年(昭和51年)6月 長崎大学病院勤務
1977年(昭和52年)4月 国立療養所長崎病院勤務
1978年(昭和53年)6月 長崎大学病院勤務
1980年(昭和55年)1月 日赤長崎原爆病院勤務
1981年(昭和56年)1月 長崎大学病院勤務
1983年(昭和58年)4月〜1998年(平成10年)6月 三菱重工株式会社長崎造船所病院勤務
1998年(平成10年)7月〜 ふくだこどもクリニック開院し、中央橋こどもデイケア「あひるっこルーム」を併設
2015年(平成27年)  長崎県学校保健会より永年功労者として表彰、長崎市教育委員会より感謝状を贈呈される

医師を志した時期や理由をお聞かせください。

私自身が小さい頃から喘息がひどくて、1年に80日くらい休むような生活を中学2年生までしていました。父親は公務員でしたが、そのときの治療代が大変だったのか、母親から「医者になって自分の治療代くらい稼ぐように」と勧められました。

母親の親戚には女性医師が何人かいましたので、母から話を聞いたり、実際に会ったりして、女性医師の存在は身近にあり、高校2年生のときに自分の成績など考えず「医者」ではなく「女医」になると決めました。

どのような医師を目指しましたか?ロールモデルとなった方はいらっしゃいますか

一般小児科医になりたかったようで、研究者になることなどは考えませんでした。
私はマイウェイをいくタイプなのでしょうか、ロールモデルは特にいませんね。

これまで、一番つらかったことはどのようなことでしょうか?

一番つらかったのは、嬉野病院に転勤する直前に妊娠がわかったときですね。
「頑張ります!」といって転勤希望したのに、妊娠してしまって・・・。妊娠報告に行った時に医局長の先生の顔色が変わったのは今でも忘れられません。

長崎県で初めて病児保育施設を開設(平成10年)されたのは、どういう経緯でしたか

私の大学入局当時は他の科より女性医師は比較的多かったのですが、産休や勤務は自由なように感じ子育て女性医師は優遇されているように思えました。反面、昼からは働けない、当直はできない、入院患者さんの時間外対応ができないなど男性医師の非難は最たるものでした。

「ベビーホテル(その頃しきりにいわれていました)でもしようかな」とちらっと思うこともありました。
開業する前に約15年勤務していた三菱病院ではお母さん方が働きはじめていて、子どもが熱を出して受診し、診察中に「あんたのせいでお母さん働きにいけんやろ!」と子どもをおこるような場面に何回か遭遇したりしていました。
そんな時に、テレビの番組で他県の小児科医院が病児保育をはじめていることを知り、私が小児科医としてできる最もぴったしの仕事だと思いました。

調べますと厚生省(現;厚生労働省)平成7年よりエンゼルプラン(子育て支援のための総合計画の通称)として乳幼児健康支援一時預かり事業として打ち出していたのですが、平成9年私が開設前ですが長崎県では0でした。
国の政策であれば背中を押された気がして心強く、長崎市と協議し、平成10年7月診療所と同時に病児保育室(中央橋こどもデイケア)を併設しました。

利用料金は、赤字になると困るので事業費の保護者半額負担という国の案とほぼかわらない4300円食事費500円ではじめました。1日のパートのお給料はとんでしまいそうな料金と批判がきこえてはいましたが、それでも預けて働きたい、働かなければという利用者は他県の安いところより比較的多かったようです。

平成12年度より国は利用料金を2000円と一律にし、当方の利用者も多くなり、また補助金も少子化のためか数段階で改善され、平成20年度より一律ではなく利用者数に応じて決められるようになり、わたしのところも赤字が少なくなりました。

院長という立場になって、考え方が変わったことはございますか

「スタッフとうまくいくようにしなければ」と思いました!自分自身の診察にひびきます。
そして看護師や保育士の採用が大変です。毎年何人もそれぞれの事情で、いろんな時期に辞めていくので、その管理が大変です。

赤字でもさほど気になっていませんでした!医者としては1人1人の患者さんを診ることが仕事だと思っています。
開業して2年後、ちょうど保護者負担金が2,000円(食事代は別)になった頃は、年間2,000人前後の利用者で、全国で1-2位でした。

その理由を考えたら、預ける親の75%は朝8時~9時に受診するため朝早くから診察をしていたからだと思います。働く母親を支えるには、朝早くから患児を診て、自分がもっと働かないといけないということですよ!
現在は長崎市内の施設は増えましたが今でも利用者は年間2,000人前後です。

開業・開設して、大変なことはどのようなことでしたか

人(=職員)の確保と、感染症の管理ですね。朝から診察していても、後から高熱になってインフルエンザ感染症とわかって、あわてて隔離したりしてますよ。

病児保育室を始めてよかったと思われることはどのようなことでしょうか

やっぱり、「先生が預かってくれるから働けます」というお母さんの言葉ですね。
それと小児科は感染症の流行によって、忙しかったり暇だったりしますが、病児保育をやっていると、外来のみより年中関わりが多いのでやりがいがありますね。

これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございますか?

夢は、病児保育での受け入れを「絶対!断らない」ようにすることですね。
今の場所(江戸町)は近隣に子どもは住んでいないけど働くお母さんは来やすいところです。もし、宝くじが当たったら、街の真ん中の来やすい土地を買って、駐車場も広く完備して、「絶対!断らない」病児保育施設を作りたいですね。2億、3億と当たったらね♪
あとは、もう少し余裕を持ってゆっくり仕事をしたいかな、院長室もほしいですね。

リラックスするための方法や趣味はお持ちですか

ほとんど毎週、中国式マッサージに通っています。
10年以上、週1回1時間ぐらい、気持ちよくリラックスできます。

女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。

臨床の医者だと、どうしても患者さんのことがずっと頭にあり、子育てとの両立は大変だと思います。でも、子育ては悔いが残らないようにしてくださいね。
私は子育ては母にまかせっきりでもありましたが、子どもを中学から寮のある学校に入れました。わが子のむずかしい思春期には接触が少なく、後悔ばかりですが、でも一緒にいてもイライラしたかなあ、など考えましたね。

病児保育を始めたきっかけは、子育ても仕事も頑張りたいお母さんを応援したいという思いからです。頑張って、欲張って、キャリアを積んで、地位を上げてください。
女性が決定機関にいないと、女性や子どものためのよい法律はまだまだできそうにないですね。
もちろん女性の認識が変わらないといけないかもしれませんね。あきらめたらダメですよ。

<インタビューを終えて>

現在、長崎県内の病児・病後児保育施設は、合計19施設(事業所内開設を除く)、長崎市内は6施設ありますが、長崎県で最初にオープンしたのが、中央橋こどもデイケア「あひるっこルーム」でした。それから18年という長い期間、福田先生は長崎市の中心部で、働く親のサポートをしてこられました。

病児保育施設の数は増えてきていますが、利用者も増え続け、冬季の感染症流行期には受け入れができないことがあり、それをとても心苦しく思っておられるようです。
どんなに忙しいときでも、明るく診察してくださる福田先生にお世話になった女性医師は少なくないと思います。福田先生が病気にでもなられたら、路頭に迷う親子が続出します。

どうぞこれからもお元気で、診療を続けてください!
また、1人息子さんは医学の道に進まれ、お母さんと同じ道を歩もうとしているとのことで、新たな生きがいを感じておられるそうです。
(平成28年4月インタビュー)