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輝く卒業生インタビュー 世羅 至子 先生

2020.06.19

VOL.13
世羅 至子 先生
・長崎県立大学シーボルト校看護栄養学部 栄養健康学科 教授

<略歴>
1990年(平成2年)3月 長崎大学医学部卒業
1990年6月〜1991年5月 長崎大学医学部付属病院第一内科入局、研修開始
1991年6月〜1992年4月 大分県立病院第二内科
1992年5月〜1993年6月 国立小浜病院
1993年7月〜1994年4月 虹が丘病院、退職後に第一子出産
1994年10月〜1996年1月 小城町立病院、退職後に第二子出産
1996年6月〜1997年3月 国立佐賀病院
1997年4月1998年6月 昭和会病院、研究開始
1998年6月2000年6月 長崎大学病院第一内科
2000年7月2007年3月 三菱重工業長崎造船所病院
2007年4月2014年3月 放射線影響研究所臨床研究部 研究員
2014年4月2019年3月 長崎大学病院生活習慣病予防診療部 講師
2019年4月〜 現職

医師を志した時期や理由をお聞かせください。

私自身が、子どもの頃に病気があり、小学校入学前までは長崎大学病院に年に1回受診してお世話になった話を聞いていたことと、高校生で進路を考えた時に、本当は理学部に行きたかったのですが、長崎大学には無く、県外に行くのは諸事情で難しかったので、長崎大学の理系で、医学部に行けたらいいなと思いました。

また、実家は大学病院の近くにあり、幼稚園の頃は医学部の敷地を通って登園していました。医学部に進学したら、家から通う距離も一番近い!という利点がありました。

どのような医師を目指しましたか?ロールモデルとなった方はいらっしゃいます

特にロールモデルはいませんが、診療所で、訪問診療などをしながら、地域医療に携わるホームドクターになることが、最終的なゴールイメージです。

今、ここ(現職)にいるのは色々なご縁があって、思惑とは少し異なりますが、この先、また臨床に戻る時には考えたいですね。

これまで、一番つらかったことはどのようなことでしょうか?

やはり子育ての一番忙しい時期ですね。今のように女性医師に対するバックアップもほとんどなかった時代なので、妊娠して産休に入る時は退職、復職するまでは無職でした。

第一子出産後は5か月、第二子出産後は4か月でフルタイムに復職し、当直の免除もなかなかしてもらえませんでした。当直の時は、夫が子どもの世話をしていました。

一番きつかったのが、年子の子ども二人がいて、大学病院に戻ってレジデントをしていた頃ですね。実験系の研究をするようになると、夕方から始まり夜中までかかるようなことが結構多くて…。患者さんの手術で得られた生きた甲状腺の濾胞細胞を培養して行う実験で、その細胞も他所から送ってもらっていたので、突然「今日の夕方に細胞が届く」と言われて、長崎空港まで取りに行ったりしました。

そこから培養を開始するというような研究だったので、保育園の送迎は実家に協力してもらいました。その後、夫婦一緒に長崎市外へ異動の話が出ましたが、実家の手助けがない場所で子ども二人を保育園に預けて、フルタイム勤務する事は、当時の子育て環境下では難しいと考えて、夫には単身赴任してもらい、私は実家の近くに引っ越し、市中の病院へ異動しました。

その病院では、内科系の先生が宿直(夜の当直)を代わってくれて、私は土・日の日直だけをしていました。市中の病院で働き、当直をしないのは、気が引けるという感覚を持っていました。「当直免除が当然」と思う女性医師が増えてしまうと、周りのカバーが大変になると思います。

土曜日の日直であれば、保育園にも預けられますし、少しでも分担する方が良いと思います。
日曜日も、パートナーが見てくれるなら、日直をすると、溜まった仕事を一気に片付けられて良いですよ〜。

私のパートナーは協力的でしたが、パートナーが子育てに協力しないとなると、女性が仕事を辞めないといけない状態にもなりますよね。
当時、日直が月3回位あり、時間外・夜間の呼び出しもあったので、パートナーが当直で不在の夜に、呼び出しがあったらどうしようというのが、一番心配でした。

子どもが小学校低学年の頃は、夜中の1時、2時の呼び出しで実家の母に頼めない時は、テーブルに置き手紙をして、子どもだけ家に残して病院に行ったこともあります。
幸い、子どもが寝ている間に帰宅できて良かったのですが、本当に大変でした。

早い時間帯の呼び出しの時は、母に頼んだり、子どもを連れて勤務していました。病院で帰りを待つ子どもと囲碁をしてくれた先生もいて、周りの先生方も色々と手助けしてくださいました。

子どもが小学校高学年頃から思春期になると、子育てが難しくなり、子どもと一緒にいる時間を作ることを優先して病院勤務を辞めました。当直がなく、週末の呼び出しがない勤務先を医局に相談して、研究所に異動しました。

子どもが中学・高校を卒業するまで、病棟を持たない職場で働き、子どもが将来きちんとした人間として生きていけるように、自分が後で後悔しないために、この時期に子どもと向きあう時間を持てて良かったです。

子どもが大学に進学したので、また臨床に戻りたいと医局に相談したところ、約15年ぶりに大学病院に戻り、生活習慣病予防診療部の副部長・講師として勤務することになりました。
一般の臨床医として働き、あまり業績もない自分が、本当に求められている人材かと不安やプレッシャーを感じながら戻りました。

県立大学教授という立場には、どのような経緯でなられたのでしょう

大学病院に5年間勤務して、そろそろ次の世代に譲って良いのではないかという思いと、自分の年齢も考えて、きちんと就職したいという思いがありました。

子どもが成長して自分の自由な時間があるので、臨床医として自分の患者さんを最期の看取りまでできるようになりたいという考えもあり、大学病院を辞めたいと医局に相談したところ、県立大学の看護栄養学部の四代目教授の打診がありました。

このポストは、第一内科の内分泌・代謝班の先生方が歴代の教授を務めており、三代目の教授が定年退職を迎えられるというタイミングでした。人生のいくつかの分岐点で、偶然も重なり、選択肢の中から、今回は県立大学の教授職を選択しました。

教授という立場になって、考え方が変わったことはございます

視野が広がりました。今まで病院や研究所だけの世界だったのですが、農学出身、栄養学出身、運動生理学の先生などがおられて、他方面の人と交流できるので、刺激的です。

研修医の先生よりもさらに若い、平均年齢20歳の学生たちは、意欲的に取り組む子も多く、会話がとても楽しいです。

教授になって、大変なことはどのようなことでしたか?

教育は全くの素人になるので、着任から1年間は、ひたすら講義の資料を作りましたね。

まず自分が勉強しないといけません。臨床医学総論をするには、解剖、生理、生化学などの知識も必要です。看護栄養学部に医師は二人だけなので、医学全般を分担して講義を行います。自分が何十年も前に学んだ内容とは、変わってしまっています。
「標準生理学」の本は、私たちの頃の2倍の厚さです!改めて勉強しなおして、時間はかかりますが、新しい気づきもあります。

また、並行して学生の研究指導があり、ここでできるテーマを探すのが難しいです。私は臨床メインで研究にはあまり携わっていなかったので、患者さん対象の研究を持ち込むことはできないので、できる研究テーマを探すことが、着任した時に一番困りました。

道具もない、知識もない、技術もない、お金もない…これで何ができるのか、というプレッシャーがかなりありました。最初の2〜3年は軌道に乗せるまで大変だとは聞いていましたが、医局の阿比留教生准教授に何回かアイデアや大学病院との共同研究について相談しました。

2019年9月からゼミの学生7名の卒業研究・論文の指導を行っており、メインは調査研究ですが実験研究もします。まずは、廃墟になっていた隣の研究室の掃除から始めて、環境を整えました。自分自身で教えることのできない技術ELISA (Enzyme-Linked ImmunoSorbent Assay)などは他の先生にお願いして指導してもらっています。

研究の一環で採血をしましたが、私から声をかけてアカデミックハラスメントにならないように、学生自身が協力者を募ります。学生はお互いの卒業研究に協力し合う姿勢があるので、そこは大変ありがたいです。

何十年ぶりに、採血をしました!痛い思いをさせてしまうと研究の協力者が減りますから、緊張しました!そんなにアカデミックなことはできないのですが、学生と楽しみながら一緒に研究を行っていきたいと思います。

教授になってよかったと思われることはどのようなことでしょう

時間的には、少しゆとりがあります。所定の講義や会議以外の時間は、研究や勉強、学外での調査などに比較的自由に使えます。気持ちの余裕やゆとりもできたと思います。自分ができることをボチボチやっていきながら貢献できればと思っています。

大学院を経験して、考え方が変わったことはあります

今までやってきたことについては、年を取ったなぁと能力の衰えを感じることが多いのですが、新しいことを勉強すると、脳の中にまだ使っていない部分があると実感します。

新しい神経細胞ができてくるような喜びや楽しみを感じるようになりました。これからもまだ、聴講生として憲法学なども勉強したいと思います。

年を取ると、講義を理解したというより、「腑に落ちた」感があり面白かったですね。

これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございます

仕事については、いつか、患者さんに近い状態で外来診療を行う、看取りまでできる病院・介護施設などに勤務して患者さんに寄り添える医師として終わりたいと思っています。

また、30年程働いてきたので、プライベートな人生も少し楽しみたいと思っています。

リラックスするための方法や趣味はお持ちですか

山登りは、年1〜2回程度で、今年は計画的に休暇を取る予定でしたが、新型コロナウイルス感染症の影響で学校のスケジュールが変わり、未定になってしまいました。

サッカー観戦(V・ファーレン長崎)は、ホーム試合はもちろん、アウェイ試合にも出かけて行きます。
昨年は、山形まで一人で応援に行きました!ホーム試合は夫婦一緒に行きます。子どもが二人とも、小・中・高校までサッカーをしていたのがきっかけで、子どもの応援に行くうちにサッカーが好きになりました。

女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。

医師としての仕事を続けてほしいと思います。様々な制約があってフルタイムで働けない時もあると思いますが、休みながらでも、パート等の勤務形態でも、ボチボチで良いから続けていくと、先につながっていくと思います。

私が何故かここ(現職)にいるように、人生何が起こるかわかりません。曲がり角に来た時に、自分で「できないかも」と思っても、何とかなると思います。私は基本的に「何とかなるさ」と、楽天的ですけどね。

自分ができることを、できる範囲内で頑張ってやっていると周りがわかってくれますよ。
最初から「できない」「無理」と思わないで、今できることをやっていると、徐々にいろんな道が広がるので、あきらめないでほしいと思います。

今は女性医師も増えて、様々な考え方や家庭環境があると思いますが、30年前と比べれば、選択肢も増えて多様な働き方ができる時代だと思います。

30年前は、「できません」と言ったら、働きたくても働く場所がない時代でした。きつい時は無理をせず、でも仕事は続けてほしいと思います。医師として、いつかどこかで還元してほしいと思います。

<インタビューを終えて>

Vol.8でインタビューした芦刈先生と世羅先生は同級生で、医学部で学び、医師となった責務を強く感じて頑張ってこられた世代だと感じました。

育休を取得するのもままならず出産前に退職する時代、柔軟な勤務形態も子育て環境も整っていない時代で、仕事と子育ての両立が一番つらかったと、お二人とも話された事が印象的でした。

若い時は、当直も当然の義務として行いながら、必要な時期には、お子さんのために、時間に余裕のある職場へ異動された経験もあり、仕事にも子育てにも誠実な姿勢を感じました。
世羅先生の努力の積み重ねを、川上教授をはじめ医局の先生方が理解・評価しておられるので、分岐点では役職を薦めてくださり、先生が新しい方向にステップアップする流れができたのだと理解できました。

着実な歩みで、教授になった世羅先生のお話を伺うことができて光栄でした。新しい世界で新しい出会いを楽しみながら頑張っておられてうらやましい限りです。世羅先生もお勧めの土曜・日曜日の日直は、ぜひトライしてみましょう!
(令和2年4月インタビュー)