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輝く卒業生インタビュー 鈴木 眞理 先生

2016.01.04

VOL.3
鈴木 眞理 先生
・政策研究大学院大学 保健管理センター 教授

<略歴>
1979年(昭和54年)3月 長崎大学医学部卒業
1979年4月 佐賀医科大学病理学教室助手
1981年4月 東京女子医科大学内科2練士研修医
1983年6月 東京女子医科大学内科2助手
1985年5月 東京女子医科大学医学博士学位取得
1985年7月~1987年7月 アメリカ サンディエゴ ソーク研究所神経内分泌学留学
1987年7月 東京女子医科大学内分泌疾患総合医療センター内科助手
1999年(平成11年)11月 同、准講師
2002年(平成14年)4月 政策研究大学院大学 保健管理センター教授

<所属学会>
日本内分泌学会・日本摂食障害学会:理事
(他、多数の学会の評議員を務める)

<主な著書>
1.「乙女心と拒食症―やせは心の安全地帯」(インターメディカル)
2.「内科医にできる摂食障害の診断と治療」(三輪書店)
3.「思春期に多いダイエット障害―ストレスとやせ願望の奥にひそむ、摂食障害という心の病」(少年写真新聞社)
4.「Primary care note 摂食障害」(日本医事新報社)
5.「人はなぜ「いじめ」るのか―その病理とケアを考える」(編集、シービーアール)
6.「摂食障害:見る読むクリニック DVDとテキストでまなぶ」(星和書店)

医師を志した時期や理由をお聞かせください。

子どもの頃から、人のためになる仕事をしたいと思っていました。映画が好きで、映画の中で「医者がいる」という言葉に、人々が安心する場面がいつも心にありました。
サラリーマン家庭でしたから医学部を志望することは思いつきませんでした。ところが、叔父が「医学部に行けば?」と簡単に一声言ってくれたことで、高校1年生のお正月に決心しました。

ロールモデルとなった方はいらっしゃいますか?

医学生時代は、病理の河合紀生子先生が目標で(当ホームページ内:私たちのワークライフバランス実践術No.2安倍邦子先生のお話にも登場!)、卒業後は、佐賀医大(現:佐賀大学医学部)の病理学に転出された杉原甫先生の教室でお世話になりました。
その後、「病理には内科の勉強が必要」という日野原重明先生のお言葉に従い、東京女子医大の内分泌内科で4年間研修をして、アメリカに留学しました。
東京女子医大やアメリカで多様な生き方働き方をしている女性を見て、自然と自分のモデルは自分が作るのだと思いました。また、留学時代の恩師ロジャー・ギルマン先生(1977年ノーベル医学・生理学賞受賞者で、視床下部ホルモンを発見・同定)は医師でもあり、「人のために働きなさい」とおっしゃっていて、私も患者さんのそばにいる医師を目指しました。

これまで、一番つらかったことはどのようなことでしょうか?

若い頃、女は・・とか、嫁は・・とか、言われたときは少々辛いと思いましたが、振り返ると、それがバネになったと感謝します。若い患者さんが無念にも亡くなることや、東日本大震災のボランティア時に見た光景は、自分自身の人生の辛さとは比べものになりませんでした。

どのような経緯で今のポジションに就かれたのでしょうか?

東京女子医大の内分泌内科で臨床研究・診療と日本でも新しい教育システム(チュートリアルや人間関係教育)で忙しくしていた2002年当時、隣の敷地にあった政策研究大学院大学が「英語が話せて、内科と留学生のメンタルの面も相談もできる人材」を探していました。
学長や主任教授の高野加寿恵教授からそのお話をいただき、ふたつ返事で承諾しました。
「一晩、考えさせてくださいくらい言うものよ」と諭されましたが、病院外での活動を始めていた私には、「異動すると週休2日になる」の一言がとても魅力的で、現職に就任しました(当時48歳)。

外来と病棟診療はそのまま東京女子医大で継続して行いました。私立医科大学から国立の政治・経済系の大学院大学への異動は、行政の内側や政策や社会の仕組みを作っていく過程をそばで見ることができて、視野が広がりました。

また、留学生の健康管理では教科書でしか知らなかった疾患を経験しました。結核高蔓延国の留学生が多く、入学後の健康診断にクオンティフェロン検査を導入しました。
また、社会貢献を業績として容認してくれる大学なので、いろいろな活動もできました。

今のポジションになって、考え方が変わったことはございますか?

日本内分泌学会は、唯一の女性理事です。
私自身は自分が女性であることを意識して仕事をしてきたつもりはありません。
ただ、今の立場になり、より多くの女性が意見を述べて決定権を持てる場にいたほうが学会全体の生産性・活動性は向上すると思い、大局的な視野に立って考えて行動するようになりました。
この学会では20歳代の会員数は女性が男性を超えています。先進的な活動の歴史がある米国の女性内分泌研究者の会とも連携を始めました。

また、発展途上国からの留学生と関わる中で、日本の優れた衛生教育と医療レベルに改めて感謝し、日本がこの領域で世界に貢献していくことを期待しています。
日本摂食障害学会として取り組んできた国立の摂食障害センター構想は、署名活動や厚労省と議員の方々のお力添えで2015年に実現し、30年来の貧相だった治療環境が変わり始めました。

2012年から元千葉県知事の堂本暁子先生のお誘いで「女子刑務所のあり方研究委員会」の活動をさせていただいています。法務省や地方自治体の行政や医師会、看護師や助産師会の多くの熱心な方々の力の結集で事業が進みます。

プロジェクトの実現は多くの方々のご尽力や人と人との出会いの賜物だと思い、感謝するばかりです。また、行政に関わるからこそ生かされる医師の仕事もあることに気付かされました。

現状で、大変なことはございますか?

私の小学1年生の通知表に担任の先生から「他人のお世話ばかりして自分が何をしていたか忘れます」と書かれましたが、今も同じです。自分の論文や研究などのことは日中になかなかできないことですかね。

リーダーになってよかったと思われることはどのようなことでしょうか?

保健管理センター長として10年以上勤務し、物事が決議されるまでの手順・段取り方法がわかってきて、自分がやりたいと思ったことが成就するようになったことですね。学会や活動の幹部になることで、仕事がスムーズに進められるのも楽しいです。

これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございますか?

「一生勉強、一生青春」ということを座右の銘にしています。
青春というのは、感動することで、これからも、毎日知らないことを勉強して、毎日、ひとつでも感動することを大事にしていきたいですね。
私の大学では全面禁煙やムスリムなど留学生の多様なニーズに対応すること、都道府県ごとの摂食障害の相談・治療ネットワークの構築、バラ園作り、世界のお気に入りの都市を数ヶ月単位で住み歩くなどあります。

長崎大学が世界で唯一、原爆の被害をうけた医科大学だったことを忘れることはありません。平和活動をされている土山秀夫先生、福島で尽力されている山下俊一先生を尊敬しています。
講演や原稿で機会あるごとに私も発信しています。我が家は15年前から太陽光発電です。微力ですが原子力発電に少しでも依存しないという意思表示をずっとしていきたいです。

リラックスするための方法や趣味はお持ちですか?

仕事も趣味のようなものですが。それくらい面白いと思っています。
子育て中は通勤や学会出張の移動時間に読書、音楽など好きなことをして気分転換していました。
本当に余裕ができたのは50歳を過ぎてからです。軽井沢までドライブして温泉に入ります。
最近は薔薇の勉強を始めました。日課のTOEIC毎日トレーニングや家事も気分転換になりますね。

女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。

自分に投資してください!
健康や、余暇や、学会出張や勉強にでも、時間とお金をかけると、後で財産になります。
私は海外の学会や研修会に、自費でも積極的に参加して海外の研究者と交流したことが、今の活動の信念や自信になっています。

<インタビューを終えて>

政策研究大学院大学は、現在六本木の国立新美術館の隣にあります。
7割がアジア・アフリカからの社会人学生で、将来高級官僚となる方々が政策を学ぶ大学とのことです。長崎大学卒業後、今の六本木キャンパスに辿りつくまで、いろんな方と出会い、その助言を前向きに受けとめられて、今のお立場にいらっしゃるのだと思います。
とても優しい口調で、これまでのことや、これからのことも目を輝かせてお話しくださいました。

「医療行政に関わることで、もっとできることがある」というお言葉は、目の前の患者さんを救うだけではなく、全国の患者さんを救いたいという先生のお気持ちが伝わります。
「一生勉強、一生青春(by相田みつを)」を心に留め、鈴木先生が前向きに努力しながら楽しむお姿を、参考にしたいと思います。ありがとうございました。
(平成27年10月インタビュー)