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輝く卒業生インタビュー 有井 悦子 先生

2016.05.01

VOL.5
有井 悦子 先生
・有井小児科医院院長
・京都造形芸術大学芸術学部子ども芸術学科 教授
・京都小児科医会理事
・京都市学校医会顧問
・京都府保険医協会理事
・NPO法人子どもセンター ののさん理事

<略歴>
1975年(昭和50年)3月 長崎大学医学部卒業
1975年4月〜 京都大学病院小児科入局、大学病院・関連病院で研修
外科医の夫と結婚して、夫の任地へ引越し、第1子出産、岐阜大学病院・東海中央病院で勤務
1978年10月〜 夫が京都大学大学院へ通学するため、奈良・大和郡山総合病院勤務
1981年5月〜 第2子出産後、非常勤勤務
1983年8月〜 聖ヨゼフ整肢園小児神経科常勤勤務
1984年9月1985年11月 夫の留学に伴い渡米
1986年4月〜 西京都病院小児科部長、小児心身症の外来を始める
1989年9月〜 有井小児科医院を開業
2010年〜 移転して心身疾患の予約診療の診療所開設

医師を志した時期や理由をお聞かせください。

小学5年生の時に教科書で「密林の聖者 シュバイツアー」を何度も読み、深く感銘して医師になろうと思いました。
中学生の頃は、とても恐がりな性格でしたので、医師になることを諦めました。今思うと恐がりの子どもさんの気持ちがわかるので、役に立っています。

高校2年の終わりに、進路の最終選択をするときに、父は自営業で医療関係ではなかったのですが、「好きなことをするのがいい」と言ってくれたことで、かつて志した医師になろうと理系に進みました。
「好きなことを見つける」ことが、続けることになりますね。
それは、しんどい状況のお子さんも同じで、回復すると「好きなことを見つける」ことができるし、「好きなことを見つける」と、人は力をつけていき、発揮します。

ロールモデルにされた医師はいらっしゃいますか

大学生の頃は大学紛争があって、親友が留年したこともあり、自分がしんどくなって学校へ行く意欲が無くなり、同級生にノートを貸してもらい助けてもらいました。
「本当に医者になる気があるのか」と、周りに言われたこともありました。
しかし、西医体(西日本医学生体育大会)で京都に遠征に行ったときに、「伝統と革新が共存し、学者や芸術家や学生が対等の立場で、イキイキと輝くすばらしいところだ!」と、京都に魅力を感じ、京都へ行こうと決意しました。

それから、毎年夏に、京都大学の外科の教室に実験の手伝いに通い、4年間かけて両親を説得し、卒業後すぐに、“研究のため”と称して好きな京都を目指して長崎を離れました。
当時、長崎大学に赴任して来られていた京都大学出身の教授は、外科の土屋凉一先生や脳外科の森和夫先生など、面白く個性的な先生ばかりでした。京都でも素晴らしい先生方と出会い、特定のモデルというわけではないのですが、たくさんの方々に導かれました。

これまで、一番つらかったことはどのようなことでしょうか?

自分の子どもを犠牲にしたことですね。夫の赴任・転勤に伴って、私はキャリアを中断して一緒について回りました。その都度、子どもの保育所も変わって振り回してしまいました。
当時はまだ育児休業の制度はなく、産後休暇の後は、「女性医師だから(休んで困る)」と仲間や後に続く女性医師が思われないようすぐに仕事へ戻り、自分も臨床経験を積みたい時期だったので、子どもの気持ちまで考えることなく、小さいうちから保育所へ預けて、当直もして、子どもの心を相当不安にさせたと思っています。

そのとき子どもの気持ちに思いをいたらせなかったことは今でも申し訳なくて、それが今の仕事の原動力になっていることも事実ですね。
でも、その後に、子どもにゆっくり「大切にしている」と伝えられる時間をとれば、また関係を築いて、心の育ちを確かにできることはお伝えしたいですね。

夫が研究をして論文をどんどん書いている時期に、私は非常勤だったりして、キャリアを進められず、悶々とした時期もありましたが、それもその後に、「仕事がしたい!」という原動力になっていますね。

当時、密かに夫との不公平さを感じていましたけれど、自分自身がもっと本気になって、もっと力を尽くせばよかったと、後になって気づきました。

どのような経緯で医院を開業され、教授という立場になられたのでしょうか

39歳の時に、勤務していた病院が救急診療を始めることになり、小児外科医が手伝うからと言われても、常勤の小児科医は1人でしたから、救急診療を始めるのは難しいと判断しました。
子どもが親なし子にならないように、子どもとの時間を確保したいという願いも強くなり、急遽開業を決意しました(1989年)。開業してから、診療上ご縁があった方からの依頼で、奈良女子大学で約10年間、非常勤講師として教育学部の中学教職過程の学生さんに講義をしていました。

往復4時間位かかるのですが、それでも、将来教師になる学生さんに、不登校のような、しんどくなったお子さんの気持ちをわかってもらいたくて、通っていました。
「頑張れ、頑張れ」と励ますのではなく、子どもの思いを知って欲しかったのですが、しかし、中学生では手立ても焼け石に水で遅いと焦燥に駆られていました。

もっと、乳児期・幼児期から関わる人達が大切だと思っていたところ、2006年から京都造形芸術大学に芸術学部子ども芸術学科という保育士を養成するコースが新設され、声をかけていただき、希望が叶って教授職をお引き受けしました。

院長、教授という立場になって、考え方が変わったことはございますか

開業した1989年に、国連で「子どもの権利条約」が採択されて、1994年に日本でも批准されました。子どもは、小さいけれど権利を持っていて意見を表明することができるのですが、社会には受け入れられていません。

小児科は「母科」ともいわれるように、母親とのやりとりが中心だったのですが、私は、開業以来、子ども本人を主人公として話を聴き診療を行ったところ、子どもも、きちんと自分のことを説明できるし、セルフケアもします。
子どもが親を教育することもできるのですよ。
教授としては、若い人達の豊かな感受性ややわらかなこころや子ども達を本当に大切にする慈しみを知って、ともにあることの幸せと悦びを感じさせてもらっています。

今の立場になって、大変だったことはどのようなことでしたか

医院の運営はあまり得意ではないので、それが大変でしたね。
今は、小さなスペースで、予約のみの診療をしているので、どうにかなっています。

このように、いろいろな形で医師の仕事はできるということも、若い先生にお伝えしたいですね。
最初から、今の形態を目指していたわけではありませんけれど、患者さんに必要なことをやり進めているうちに、こういう形になりました。

今の立場になって、よかったと思われることはどのようなことでしょうか

“教授”ということで人に話を聴いてもらえることですね。
患者さんの診療から得られたたくさんの大切なことを、ポストをいただくと、お伝えする機会が増えたことがいいことですね。
このようにインタビューを受けて母校の後に続く方々にも、お伝えすることができてよかったです。

これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございますか?

あります!子ども達がすごく力を持っていることを親にわかって欲しいし、親が子どもを「大切に思っている」ことを伝えるように努めるだけで子どもは力を発揮します。
子どもも親を「とても大切に思っている」ことを伝えて親の大きな力にしていただきたいです。

このような分野の診療を行う小児科医は極めて少なく、同行の仲間を増やしながらこれまでの臨床から学んだ大切なことを一般の方々に何とかお伝えしていきたいと心から願って、余生の大事な仕事だと勤しんでいます。

リラックスするための方法や趣味はお持ちですか

自分の子どものこと、世の中の子どものことをいつも考えるのが趣味のようなものです。
それと京都という町に住んでいるだけで心地良く、その中でボーっとゆっくりカフェに座っていたりすることですね。

美術館や歌舞伎などをいつでも観ることができる環境にもあり、若気のいたりで京都に来ましたが、良かったと思いますね。
無謀にもいつか、手習いのレッスンを進められたら、ジャズシンガーとして、仲間の前で音楽ライブをしたいと密かに叶わぬ夢を抱いています。

女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。

「好きなこと」を見つけること、頑張りすぎないこと。ここぞというときに、頑張れなくても、また次のここぞというときに、頑張れたりします。緩めることも大事です。

そして、自らの子どもの佳い育ちのために、できれば育児休業を取得して欲しいですね。乳幼児期の子ども自身は、親の傍にいたいと願っているのです。
乳幼児期にしっかり心の土台ができたら、あとは安心して働くことができます。昔は無かった制度ですから、是非、利用していただきたいです。

男性も女性も、子どもと関わるほうが、人の想いに対して想像力を豊かにでき、仕事にも活かせます。子どもの話をよーく聴いてください。
自分の夫は仕事ばかりで、子育てから遠ざけてしまったことは、今では申し訳なかったと思っています。

また、子育てや介護などで大変なときは、常勤以外の働き方や、検診業務など、勤務内容を替えても継続していくこと、医師免許があればいろんな働き方ができることを伝えたいですね。

<インタビューを終えて>

小児の心身医療を専門として、長年しんどい親子とともにありたいと思っておられる有井先生。
とても優しく、なんでも受けとめてくださる先生のご姿勢で、インタビューしながらも、相談になってしまうことが何回もありました。

親が子どもを大切に思っていることを、子どもに伝えるだけで子どもは変わってくる、しんどいときはゆっくりしていい、・・・いくつもの子育てへのメッセージをいただきました。

有井先生は、20年以上前の平成6年から小児科医有志で京都府保険医協会小児問題検討会を発足され、平成12年からは京都小児科医会子育て支援委員会としての活動を継続されています。
その活動の中で、両立について調査を行い、その結果は国の看護休暇制度の基礎データとなりました。子の看護休暇取得と病児保育との両輪が回っていく必要があると話されました。

ご自身の経験、患者さんの診療からの経験を、たくさんお話いただき、とても参考になりました。
自分の好きな専門領域での診療を続けながら、お子さん・お孫さんのお世話もして愉しんで生活をされている有井悦子先生。
妹さんは長崎大学病院でご活躍中の長谷敦子先生(医療教育開発センター救急医療教育部門 教授)という、素晴らしいご姉妹です。
(平成28年1月インタビュー)

長谷敦子先生のご紹介 ~医療教育開発センター発行「キャリアの軌跡」より~
女性医師特集号-1(平成25年3月20日発行)
・輝きながら歩み続ける。長崎、女性医師の輝セキ
第42号(平成26年3月20日発行)
・長崎大学病院を選んだ理由/救急医療教育室が誕生