VOL.9
荒木 貴子 先生
・ミネソタ大学 糖尿病・内分泌代謝部門Assistant Professor
<略歴>
2000年(平成12年)3月 長崎大学医学部卒業
2000年〜 武蔵野赤十字病院 臨床研修
2002年(平成14年)年〜 都立老人医療センター勤務(現:東京都健康長寿医療センター)
2003年(平成15年)〜 東京海上日動メディカルサービス株式会社勤務
2005年(平成17年)〜 マウントサイナイ・ベスイスラエル病院(アメリカ・ニューヨーク州) 内科研修
2011年(平成23年)〜2015年(平成27年) シーダーズ・サイナイ病院 内分泌科・下垂体研究室(アメリカ・カリフォルニア州)で研究
2016年(平成28年)〜 ミネソタ大学 糖尿病・内分泌部門Assistant Professor
●医師を志した時期や理由をお聞かせください。
私が小さい時から、父親は顕微鏡を、母親は山のように科学の本や図鑑を与えてくれました。そういう環境で育ったので、いつも「生命や自然の不思議」などに興味がありました。
そして、初めて進学した大学では農学部を選びました。ですが、途上国での実習を経験したことをきっかけに、科学の一部である医学の分野で、「海外に出て、人を助けたい」と思うようになり、医師を目指しました。両親は医師ではないですが、同じ環境で育った弟2人も長崎大学医学部を卒業して医師になりました。
私が医学部を受験した1994年当時は、学士入学の制度はなく、大学卒業後に再受験した同級生が5名いました。長崎大学では2001年度から学士編入制度が始まりました。
「海外に出て、立派な医師になりたい」と思って医学部に再入学したので、英語を習得しようと、夏休みを利用して語学学校に通ったりしていました。
上京して研修を積み、東京海上日動メディカルサービスに勤務していた時に、同職場で勤務されていた西元慶治先生(脳外科医)が立ち上げられた“Nプログラム”(若手臨床医師のアメリカ留学制度)を知りました。
それは、当時マウントサイナイ・べスイスラエル病院長:Newman先生、研修先のニューヨーク:NYと、派遣元の日本:Nippon の頭文字Nを表しています。ニューヨークのマウントサイナイ・ベスイスラエル病院で、若くてやる気のある内科系医師が3年間臨床トレーニングできるプログラムです。
1991年から日本人の若手医師を毎年数名ずつレジデントとして採用してもらっています(2017年現在172名)。長崎大学医学部卒業生も私を含めて過去3名が派遣されています。
そこで、西元先生のサポートを受けて、USMLE(アメリカ医師国家試験)の勉強をして、ステップ1(基礎)、ステップ2(臨床)に合格し、“Nプログラム”をきっかけとして、2005年にアメリカに渡りました。
3年間の研修の後に、内分泌を専門にしようと決め、そのままマウントサイナイ・べスイスラエル病院に残り、勤務していました。
●どのような医師を目指しましたか?ロールモデルとなった方はいらっしゃいますか?
「世界で活躍する、役に立つ医師」が目標でした。
私のロールモデルは、自分と関わりがある大変お世話になった先生方ですが、まず、シーダーズ・サイナイ病院に下垂体を専門としているShlomo Melmed先生です。
とても素晴らしい先生で、Shlomo先生のご講演を学会で拝聴して、先生のもとで勉強したいと思い、2011年に拠点を移しました。
後から知りましたが、私が医学部4年次のリサーチセミナーの担当教官であった山下俊一先生がShlomo先生の最初のお弟子さんで、同じ研究室で研鑚されており、長崎にゆかりのある先生でした。
過去にも長崎大学の先生が研究に来られていました。ロールモデルの師は、多いかもしれませんが、Shlomo先生、西元先生、長崎では山下先生、当時山下先生の教室に在籍されていた大津留晶先生、留学当時、医学部長でその後もサポートしてくださった兼松隆之先生の5名です。
●これまで、一番つらかったことはどのようなことでしょうか?
ニューヨークからカリフォルニアに移るときに、ビザの有効期限が切れ、グリーンカード取得にも失敗して、そのためにシーダーズ・サイナイ病院に採用を一旦断られて、行くところがなくなってしまいました。
一体どこでどうしたらよいか、わからなくなった時がありました。
日本に帰る片道航空券を買って、アパートも出なければいけないので、荷物を倉庫に預け、路頭に迷う状態になって、これからどうなるのだろうと思った時が一番つらかったですね。
いよいよあと1週間でビザが切れるという窮地で、自分でもよくやったなと思いますが、Shlomo先生に助けを求める長い長いメールを送りました。
「どうしてもアメリカで一流のことを勉強して、専門の病気をしっかり究めて、立派な医師になりたい、ここで帰ったら無念である」という思いを伝えました。
すると、翌日にはShlomo先生の鶴の一声で、全てが良い方向へ動き出し、勤務も可能になり、ビザも特急便で出してもらえ、救われました。
Shlomo先生には、当時1度しかお会いしたことがなかった私を助けてくださる器の大きさを感じましたね。とても尊敬しています。
医学・研究・リーダーとして優れている医師は、器が大きく、懐も深いですね。先ほどのロールモデルの先生方はみなさん人間的にも素晴らしいです。これが、私が一番困ったことでもあり心に残っている出来事ですね。
●ミネソタ大学のアシスタント・プロフェッサーという立場には、どのような経緯でなられたのでしょうか?
ニューヨーク時代からの知人が、ミネソタにいたこともあり、ミネソタ大学への就職を希望し、ポストをいただきました。カリフォルニアでは、恵まれた環境で研究ができていたのですが、ミネソタでは、独立してチャレンジする環境のスタートでした。
下垂体を専門にしているのは私1人だけで、周囲の期待もあり、それらに応えられるか不安もありましたが、今のところ順調に行っています。
現在は内分泌の臨床と、学生の教育、下垂体センターの立ち上げ、研究室を持つためのNIHグラント取得の準備などを行っています。
●下垂体専門のリーダーという立場になって、よかったと思われることはどのようなことでしょうか?
楽しいですね。自分でイマジネーションを膨らませて、思いついたアイデアを実現してくれるサポートが充分にある環境です。
周囲も寛容で助けてくれ、恵まれています。人と人とのリンクが広がっていって、毎日楽しくて仕方がないですね。
●下垂体専門のリーダーになって、大変なことはどのようなことでしたか?
下垂体センターの立ち上げは、簡単に進まないこともあって、自分の専門分野が地域でどれほどの需要があり必要であるかを大学にアピールしないといけません。
また、周囲から頼られるので、責任を持った回答・患者さんについてのコメントを返さないといけないので、責任は重いと感じることはありますね。
●当センターでは女性医師等の就労支援を行っているのですが、アメリカにいる先生からみると、どう思われますか?
人それぞれだと思いますが、子育ての期間はある程度決まっていますが、自分のキャリアは一生のものなので、キャリアを中断するのはもったいないような気がします。
日本の女性医師は、才能がある方が多いと感じます。途中でスローダウンしても良いと思いますので、なんとか一生続けられる環境であってほしいです。
保育園などの社会システムを利用したり、周囲の助けを借りることに戸惑ったりしないでほしいし、容認する社会になってほしいと思います。女性医師が利用しやすい施設の整備もしてほしいですね。
アメリカは女性医師が多いのですが、両立して仕事も子育てもする権利があると社会でも認識されています。常勤で子どもがいる女性医師の家庭には、24時間で住みこみのヘルパーさんがいたり、家政婦さんが通ったりしています。
バランスよく両立している方の共通点として感じるのは、「時間の使い方がうまい」「計画性がある」「仕事を引き延ばさず、時間になると帰宅する」という点でしょうか。自宅で仕事ができるネット環境をつくり、残務は子どもが寝た後に整理する方もいます。
もちろん、どの社会でも大変なことで、一時期パートになったり、休業を選択する医師もいます。必要な時期にはそれでも良いと思うのです。
大切なのは、また復帰して、長い目で医師のキャリアが続けられることだと思います。最近は、女性研究者のための「研究の休業届」というのも見かけました。今までの働き方とは違っても、みんなが寛容に、協力してあげることが大事ですね。
日本では、まだ女性の教員・教授が少ないようなので、頑張ってほしいですね。日本人が、とても勤勉で丁寧に責任を持って仕事をすることは、素晴らしい特性なので、社会にぜひ還元し続けてほしいです。
<補足情報>
日本の女性医師の活動率は、大学卒業後すぐに減少し、35歳では76%まで落ちて、その後徐々に上昇。女性医師が職を離れる理由の大半は出産と子育て。(2014年 日本医師会報告)
●これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございますか?
下垂体センターをつくって、臨床診療をしっかり組み立てていくこと、研究を続けていくことですね。ミネソタ州と周辺の北部中西部の患者さんが集まるセンターにしたいです。
また、これからは、何らかの形で、母校や日本の学生さんのお役に立てればと思っています。後輩のみなさんと定期的な交流などができたら、若い時にいろんな世界を見せてあげたりしたいですね。
以前、長崎大学の学生さんが来た時は、とことん面倒を見て楽しかったです。ミネソタは安全な場所なので、学生さんに臨床の見学などにも来てほしいですね。
●リラックスするための方法や趣味はお持ちですか?
美味しいものの食べ歩き、自然観賞、ショッピングなどですね。
これまでアメリカの東部、西部、そして北部中西部に移り住んでみて、少しずつ文化も気候も違うので、楽しいですね。
田舎の診療所に毎週通っているのですが、時々地元の野菜をいただきます。トウモロコシは産地だけあって、美味しいです。
ミネソタには湖が1万あると言われていますが、本当にいたるところにあります。ミネソタの人は、日本人とちょっと似ていて、穏やかで、人の気持ちを察するようなところがあり、過ごしやすいですね。今は、ほのぼのとした生活を送っています。
●女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。
思いついたことは、チャレンジしてほしい!自分で、自分の限界をつくらずに、まずやってみてほしい、そうしたら道は開けると思います。
私は、あまりいろんなことを考えずに、かえりみずに走ってきたのですが、今思えばよく走ってこられたなぁと思います。
自分がやりたいと思ったら、無理だと思わずにやってみた、そうしたら、いつの間にか、いろんな人が助けてくれて、ここまでやってこられたのだと思います。
長崎の若い方々には、やりたいことが浮かんだら、チャレンジしてほしいと思います。
そして、若い頃は気づかなかったのですが、今は、走馬灯のように、お世話になった人や黙って助けてくれた人たちのことを思い出し、本当にありがたいと思っています。
ですので、これからは、私のことを誰かが頼ってきたら、できるだけ助けてあげたいと思っています
今は、ミネソタ大学の学生さんが進路に悩んでいる時には、アドバイスをしてあげています。学生さんへの授業では、ネイティブスピーカーではないので最初は不安がありましたが、プレゼンテーションを工夫して、楽しく、面白い授業にしています。
たくさんの症例も見せて、最後には日本のYearbookに載っている暗記方法まで教えてあげたので、アメリカの学生さんは喜んでいます!
<インタビューを終えて>
明確な夢を持ち、それに向かって、限界をつくらず頑張ってこられた荒木貴子先生は、この先も、下垂体センター設立、研究室設立のために走り続けられるようです。
また、後輩のために何かしたいというお気持ちも強くて、今回、短い帰国期間の合間にインタビューを受けていただきました。「できないことはない、と思えば、道は開ける。」という信条を見習いたいですね。
アメリカでの研修初日に、電話応対に苦戦して1日が終わったという経験をされたそうですが、言葉の壁を乗り越えるために、筆記して確認したり、復唱したりと、大変な努力をされたそうです。
アメリカに渡って12年、今では患者さんとの会話に困ることはないそうです。アメリカ研修に興味がある方は、先生に連絡してみてください、きっと面倒を見てくださると思います。
(平成29年9月インタビュー)