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輝く卒業生インタビュー 髙見 裕子 先生

2018.02.08

VOL.10
髙見 裕子 先生
・九州医療センター肝臓病センター肝胆膵外科科長

<略歴>
1996年(平成8年)3月 長崎大学医学部卒業
1996年4月〜 長崎大学第二外科(現 移植・消化器外科)入局
長崎大学病院、九州医療センターにて研修、その後長崎県内の病院に外科医として勤務
2000年(平成12年)8月〜 国立療養所村山病院(現 国立病院機構 村山医療センター)勤務
2002年(平成14年)4月〜 九州医療センター肝臓病センター外科専任レジデント
2002年9月〜 同外科スタッフ
2011年(平成23年)7月〜 同肝胆膵外科科長

医師を志した時期や理由をお聞かせください。

九州大学薬学部を卒業しました。同級生の多くは製薬会社の研究者として、都会に行くのですが、私は父親の許しがもらえず、地元(愛媛県)に帰り、父親の友人の病院で薬剤師として働き始めました。
規模は100病床くらい、薬剤師は先輩と私の2人で、医師は、父親の友人の院長先生、院長先生のお父様の理事長先生でした。

理事長先生は、私が就職する前年に脳梗塞を患われていたのですが、「理事長先生じゃないとダメ」といわれる高齢の患者さんが来院すると、病院の隣のご自宅から後遺症のある足で、ひょこん、ひょこんと10分以上かけて歩いてこられていました。

立派な診察室は愛媛大学からきている若い先生に譲り、ご自分は窓際に折りたたみ椅子を2つ置いただけの場所で、患者さんの手を取って話を聞いておられました。
その場所が薬局の後ろだったので、私はその姿を見て、「絶対あの人じゃないといけない、あの医師の仕事っていったい何だ?」と思いました。

当時は、親から無理矢理地元に帰らせられて面白くないと思っていた時期でした。理事長先生の仕事に対する姿勢を見てから、薬剤師の仕事は、「薬の場所さえ覚えておけば、誰でもできる仕事じゃないか?」と悔しくてたまらなく感じました(当時は患者さんに対する服薬指導などがない時代)。

その頃が、遅ればせながら反抗期だったと思います。「ずっと親の言うことを聞いてきたのに、この状況か。」と不満でした。
同じ頃、父親はお見合いの話を持ってきました。このままでは親の言いなりで終わってしまうと思い、薬剤師2年目の夏に、大学の偏差値の本で調べてみたところ、頑張ったら医学部に行けるのではないかと考えました。

社会人になって再受験するには面接があるほうが有利ではないかと思い、長崎大学を受験することにしました。結局、親の望みを叶えず、迷惑をかけたという後ろめたさはあって、「医師として患者さんのためにきちんと生きる」ことで免罪符をもらうというか、存在意義を高めたいと思っています。

どのような医師を目指しましたか?ロールモデルとなった方はいらっしゃいます

薬剤師として勤務していた病院は救急病院でした。虫垂炎や胆のう炎などの患者さんが救急車で運ばれてきて、薬局の前を通って緊急手術を受けて、リハビリで薬局の前をお散歩して、元気に退院されていく姿を見ていました。

薬局では救急時の受付を兼務していて、病院に駆けつけたご家族に「今手術をしています」と伝える役目をしていましたが、「もっと役に立ちたい」と強く思いました。

これらの経験などから、外科は答えが早く出ると思い、自分はせっかちな性格なので、外科向きだなぁと考えていました。その時点から外科医に憧れていたので、自ら外科に入局しました。
また、医学生の時に、祖母を胆のう癌の肝転移で亡くした経験から、肝胆膵の外科というスイッチも入っていましたね。

ロールモデル1人目は、兼松隆之先生(当時 長崎大学第二外科教授、現 長崎みなとメディカルセンター理事長)です。学生の時に、ある大学の外科を見学にいった時には、「何だ、女 か」と言われました。
その次に、病棟実習でお会いした兼松先生は「来ていいよ」と言ってくださって、私の第一の門を開いてくれた方です。

兼松先生の九州大学時代の同門である朔元則先生が、九州医療センターの外科部長としておられ、現在のスーパーローテートのようなシステムを20年前に独自でされていて、いろんな大学から研修医を集めて、お互いに張り合って高めあうことを期待しておられました。

そのシステムで、私が九州医療センターに最初に研修に来させてもらう時に、兼松先生から「特に才津秀樹先生の肝臓の手術を見てきなさい」と言われていました。
才津先生は、肝臓の手術ができない患者さんに、開腹してマイクロ波凝固壊死療法という局所治療(MCN)を行っておられ、興味を持ち学びたいと思い、後に再び当院に戻りました。才津先生は、2人目のロールモデルですね。

これまで、一番つらかったことはどのようなことでしょうか?

私が当院に戻ってきた2002年に、私より2才年下(30代)の肝転移のある女性の患者さんが来ました。そのころは、化学療法も進んできていて、化学療法を併用して、局所療法(MCN)も何回か行い、多発性の肝転移でしたが、5年くらい長く経過できました。

亡くなる前の3年間は、2週間ごとの化学療法をするために、実家のある宮崎を離れて、この病院の近くにアパートを借りて住んでいました。彼女がきつい時には話を聞いて、妹みたいに感じていました。彼女も、外来で病院に来るときには、自分と、私の分までお弁当を作って持って来てくれたんですよ。

最期は、往診担当の先生と、ご両親と私の4人で彼女を看取ることができました。その週末はショックで寝込んでしまいました。無力感を感じて、医師を辞めようかとも思いました。

研修医の頃からですが、患者さんへの思い入れが強すぎて注意されたり、気を付けようとは思っているのですが、ついつい深く付き合ってしまいます。ほかの患者さんを次々に診ることで、辞めないで続いています。

肝胆膵外科科長という立場には、どのような経緯でなられたのでしょうか

国立療養所村山病院(東京)に勤務している時に、学会で九州医療センター研修時にお世話になった才津先生と会い、専任レジデントを募集していると聞き応募して当院に来ました。長崎の医局には戻りませんでした。

その後スタッフになり、2003年頃には消化器外科から肝胆膵外科の部門が独立し、2011年に肝胆膵外科科長であった才津先生が病院幹部になられたので、私が一番上の学年ということで科長になりました。

科長になって、考え方が変わったことはありますか

実はまだ考え方が変えられなくて、才津先生から指摘されました。「自分で手術をするのは楽しいし、時間もかからなくて、自分の中だけで満足している。それで結局、他の人に任せられない状況を作っている。

私はあなたを育てたけれど、あなたは後輩の先生を育てられているのか」と。同じクオリティを保てるのであれば、最初は時間がかかっても後輩の先生へ技術を教えていかなければと、痛感したばかりです…。

科長になって、よかったと思われることはどのようなことでしょうか?

実際はまだ、科長として決定権をすべて持っているわけではなく、大きな変化はありません。ただ、科長という役職がついてから、外部とのご縁ができましたね。

そもそも“女性医師”と特別視されることには全く無縁で、性別を考えたことはなかったのですが、今の立場になってみて、女性だけではなく、「若い男性の医師が育児に参加したい」「年齢を重ねると介護問題もある」と、いろんなワークライフバランスがあることを知りましたね。

そのような勉強会や講演会に呼んでもらって、ワークライフバランスが大事であると考えるきっかけを持つことができるようになりましたね。おかげで良いご縁をいただき、外部との関わりが増えました。

科長になって、大変なことはどのようなことでした

来年は信頼している才津先生が引退される予定で、肝胆膵外科科長としての真価が問われるので心配はあります。科長になって会議が増えているのですが、苦手なので大変です。

また、スタッフの先生方をまとめることができるかという不安がありますね。
最近は病院の経営面で数字がついて回り、私の采配になってから診療科の業績が落ちてきたと言われないかと、心配ですね。管理職になり経営のことも考えないといけないし、患者さんのことだけを考える時代が過ぎてしまった、と思いますね。

他には、私はアカデミックな面での活動が足りないところがあるのですが、得意なスタッフと、二人三脚で分担しています。

これからやりたいこと、今後の予定や夢などはございますか?

手術については、後輩への教育をきちんとしていきたいし、腹腔鏡下手術など最新のことも勉強したいですね。

また、具体的ではないですが、現在のチームを維持して、マイクロ波での手術(MCN)が、移植や肝切除ができない患者さんの選択肢として継承され、この1施設だけではなく、日本中に広まって欲しいですね。ラジオ波での内科治療は広まっているのに、マイクロ波での外科治療はどうして広まらないのかと不思議に思いますね。

夢は、技術の伝道をしていくことでしょうか。
長崎からも、患者さんがインターネットで調べてご自身で受診される方がおられます。
また、外科自体を選択する医師が少なくなってきているので、勧誘活動も考えていきたいですね。

リラックスするための方法や趣味はお持ちですか

4年前から茶道を始めました。それまでは仕事が趣味のようなもので、何もかもほったらかして病院にいるような生活をしていました。

5年前に切除術の技術も持ち合わせていることをアピールしようと日本肝胆膵外科学会高度技能専門医という新しい資格を初年度に取得(第1期認定者12名のうち女性は1名髙見先生のみ)したのですが、その欲しかった資格をもらった後に、はたと気づくと自分の年齢は40代半ばで、お嫁にもいかず、子ども産まずに人生が終わってしまう…と鬱々となりました。

その姿を見た友人の内科医師から、「放課後を作りましょう」と誘ってもらい、素敵なバーに連れて行ってもらいました。店主は茶道も教えている方で、私のグラスを置く所作を見抜いて、「お茶を習いに来なさい!」と言われて始めました。

来年の4月には、初めてのお免状をいただきます。遠州流という武家の作法で、千家のように深々とお辞儀をしたりせず、体を起こしてちょっと偉そうにお辞儀をするんですよ。
かっこいいお稽古部屋で月2回練習しています。

着物は、最初は着せてもらっていたのですが、最近は帯もワンタッチ、半襟もチャックで取り外せて洗えるし、簡単になっているので、自分で着れるようになりました。
着物は実家にいくつかあり、母の友人からもいただいたりして買わずに済んでいます。

女性医師、若い医師へのメッセージをお願いいたします。

最近、外科に勧誘すると、「人が死ぬ科は嫌です」「急変する科は嫌です」という人がいます。私からすると、何のために医師になったのかと思います。

どの科でも、命を預かることができる医師になって欲しいと思います。
一生懸命になると「先生熱いですね」とか、患者さんのために熱心に時間を費やすことが「かっこ悪い、古い」というイメージを持っていると感じます。

決してそうではなくて、本質は患者さんのために時間を使うことこそが私はかっこいいと思っているので、その気持ちを厭わない医師になって欲しいですね。

これから、新専門医制度が始まりますが、いろんなことを学んで経験することは、時間の無駄にはなっておらず、「土台が広い方が高い建物が建つ」(ボスの言葉を引用)という、プラス思考で頑張ってほしいですね。

<インタビューを終えて>

若い時には、研究生活より手術を早く覚えたいというお気持ちが強く、大学院を中退、その後九州医療センターの奨学金貸与制度を第1号で利用して福岡から長崎へ通い、長崎大学大学院を卒業されました。

心の触れ合いに憧れ、存在意義を求めて医師になり、患者さんに寄り添うことを第一に考えておられる髙見先生には、心に残る患者さんがたくさんおられるようです。

患者さんの心にも、家族のように接してくれる髙見先生は、忘れられない出会いとして残っていると思います。これからは、スタッフの心にも寄り添い、スタッフ・後輩医師の門を開いてあげる先生になられることでしょう。

ちなみに、愛媛のご実家は、高品質ブランドとして有名な今治市のタオル問屋さんだそうです。
(平成29年10月インタビュー)